忍勝寺山古墳

忍勝寺山古墳は岐阜県垂井町にある古墳です。忍勝寺という寺の近くにあるので忍勝寺山と名付けられたようです。

忍勝寺山古墳は直径約60mある帆立貝式古墳だそうです。面白いのはGoogle Mapで見るとわかりますが、周溝部分にきれいに民家が並んでいるところ。こちらから確認してみてください。頂上部は平坦で、地蔵堂があり、周囲から集められたと思われる五輪塔が並べられています。

忍勝寺山古墳
忍勝寺山古墳

遠景写真を見ると、古墳ぎりぎりまで民家があることがわかります。手前の畑地も多分かつては周溝だったかも。

忍勝寺山古墳遠景
忍勝寺山古墳遠景
忍勝寺山古墳説明
忍勝寺山古墳説明

忍勝寺山古墳を訪れるハイキング・コースを以下のサイトで紹介しています。

美濃国分寺跡

国分寺は741年(天平時代)に聖武天皇が国家鎮護のため、日本各地に建立を命じた寺院です。美濃国分寺は、現在の岐阜県大垣市、旧中山道垂井宿と赤坂宿の間を北に向かったところにあります。

美濃国分寺跡はGoogle Mapで見てかなりの大きさと思っていましたが、現地で見ると広いです。

美濃国分寺塔跡
美濃国分寺跡

美濃国分寺跡は、とにかく広いです。天平時代にこんなスケールの寺院が日本各地に作られたことは、本当に驚きです。写真は塔跡ですが、高さは58mあったと推定されるとか。疎石も巨大です。ただ、建物の復元などはありませんので、広大な跡地が広がっているだけです。

美濃国分寺塔跡
美濃国分寺塔跡

美濃国分寺跡の北には大垣市歴史民俗資料館があります。ここでは、美濃国分寺だけでなく、周辺地域の歴史や民俗文化を学ぶことができます。

資料館に展示されている美濃国分寺の模型
資料館に展示されている美濃国分寺の模型

この記事は以下のサイトの記事を編集しました。

美濃国府跡

岐阜県垂井町のJR垂井駅から北へ向かい、相川を渡って、しばらく歩いたところに美濃国府跡があります。美濃国府跡は今では草原に案内板があるだけです。花壇は発掘調査で見つかった構造物があった場所を示しています。

美濃国府跡
美濃国府跡

かつての美濃國府はこんなイメージ。

美濃国府跡説明版
美濃国府跡説明版

美濃国府跡の花壇にある説明。

美濃国府跡の花壇にある説明
美濃国府跡の花壇にある説明

美濃国府跡を訪れるハイキング・コースは以下に解説してあります。

佐和山城

佐和山は彦根の東側、中山道鳥居本宿との間にある標高232mの低山です。現在は山麓の清凉寺や龍潭寺が所有する私有地となっています。この佐和山に、佐和山砦が築かれたのは鎌倉時代のことだそうです。西に琵琶湖を臨み、東にはかつて東山道が通っていましたから、交通の要衝に睨みを利かせるのには絶好の位置にあったと言えます。

佐和山には鎌倉時代の近江の守護職、佐々木定綱の六男の佐保時綱が最初に砦を築いたと言われています。佐々木氏は宇田源氏の血を引く一族で、源平合戦で佐々木定綱が手柄を立てて以降、近江を中心に繁栄し、後に近江を二分する六角氏京極氏も佐々木氏から出たもののようです。佐和山城はその後六角氏が支配するところとなりましたが、戦国時代の終盤に北近江で浅井氏が台頭してくると、浅井氏の支配下となり、配下の磯野員吉が城主となりました。その後、織田信長による攻撃を受けて1571年に降伏。家臣の丹羽長秀が入りました。

その後本能寺の変後に豊臣方の武将が何人か佐和山城に入りましたが、1591年頃(諸説あり)に石田三成が入城しました。佐和山城に天守閣などを整備して、近代的な城郭にしたのは石田三成と言われています。関ケ原合戦が1600年ですから、石田三成の城というイメージが強い佐和山城ですが、実際に三成の城だったのは10年あまり、ということになります。

関ケ原の合戦で石田三成が敗れたあと、佐和山城は徳川家康の攻撃を受けて落城しました。その後徳川四天王の一人で初代彦根藩主の井伊直政が佐和山城を引き継ぎました。彦根藩は佐和山城を廃城にして彦根城を新たに築城しましたが、その時に佐和山城の材料がかなり使われたようです。ちなみに井伊直政は1602年に死去しており、彦根城を作ったのは第二代藩主の井伊直継です。彦根城の完成後に佐和山城の天守部分は徹底的に破壊されたようです。

佐和山城の歴史に関しては、滋賀県教育委員会の資料(PDF)が詳しいです。

佐和山城の大手門は東側東山道に面していましたが、城下町は東西両側にあり、石田三成の屋敷も西側にありました。その後井伊家に縁のある寺院、清凉寺龍潭寺仙琳寺なども、佐和山の西の麓に建てられています。

佐和山城の本丸北側の尾根にある二の丸は三段の曲輪で構成されています。これは最下段、塩硝櫓があったとされるあたりです。

佐和山城西の丸
佐和山城西の丸

現在の登山道は西の丸の土塁の上を通っています。

佐和山城西の丸の土塁
佐和山城西の丸の土塁

広々とした本丸跡。この辺りに天守閣がたっていました。

佐和山城本丸跡
佐和山城本丸跡
佐和山城本丸からの景観
佐和山城本丸からの景観

佐和山城の石垣はほとんどが破壊されていて、残存する場所はほとんどありません。

佐和山城天守閣の石垣
佐和山城天守閣の石垣

千貫井戸は佐和山頂上近くにある水場。

佐和山城千貫井戸
佐和山城千貫井戸

佐和山城太鼓丸口。かつての登城路はここから左、鳥居本の方です。現在の登山道はここから右側に下ります。太鼓丸方面は通行止め。

佐和山城太鼓丸口
佐和山城太鼓丸口

鎌刃城

この記事はこちらの鎌刃城の記事を転載・編集したものです。

続日本100名城にも選ばれている鎌刃城は、滋賀県米原市、中山道の宿場である番場宿を見下ろす位置にある戦国時代の城です。戦国時代初期には近江の京極氏と六角氏の争いの場となり、後には織田信長と、浅井長政のせめぎあいとなった城でした。

織田と浅井が争っていたころ、城主の堀秀村は、当初浅井氏の家臣でしたが、後に織田方に寝返りました。1573年に浅井氏が滅亡、堀秀村も翌1574年に改易となったため、鎌刃城は廃城となったようです。

鎌刃城案内図
鎌刃城案内図
鎌刃城大堀切
鎌刃城大堀切

鎌刃城の南側斜面には大石垣が残っています。

鎌刃城の大石垣
鎌刃城の大石垣

大堀切から一段上がると、曲輪が出てきます。この辺りには北大櫓があったとか。鎌刃城は主郭を中心にY字型の構造をしていますが、ここは北の曲輪に当たります。

鎌刃城の復元図
鎌刃城の復元図

北の曲輪の虎口がきれいに残っていますが、これは発掘されたものだとか。

鎌刃城北の曲輪の虎口
鎌刃城北の曲輪の虎口

曲輪をいくつも越えていくと、鎌刃城の主郭に出ます。主郭はかなりの広さがあります。

鎌刃城主郭
鎌刃城主郭

主郭の虎口もよく残っています。

鎌刃城主郭の虎口
鎌刃城主郭の虎口

主郭から南に向かうと、次第に痩せ尾根になり、こちらには曲輪は見られず、堀切が連続します。

鎌刃城南側の堀切
鎌刃城南側の堀切

鎌刃城の御城印

鎌刃城は続日本100名城に選ばれており、御城印を集めている人もいると思います。鎌刃城の御城印は、番場宿内にある蓮華寺の受付でいただくことができます。

鎌刃城 を訪ねるハイキングコース

中山道番場宿 鎌刃城から、竜宮山、八葉山、西坂山、地蔵峠(ハイキング・コース)をお勧めします。中山道の番場宿の東の山上に位置する鎌刃城跡から、尾根道をたどって竜宮山、八葉山、西坂山を経て、松尾寺山に近い地蔵峠まで縦走します。地蔵峠からは松尾寺の西坂参道を下り、再び中山道に出てJR醒ヶ井駅まで歩きます。

玉城(関ヶ原)

玉城の主郭

玉城は、関ヶ原の合戦で有名な岐阜県関ケ原を流れる藤古川上流部の玉地区にあります。どうやら玉地区にあるので玉城と呼ばれるようになったようで、最も近い集落も玉です。

玉城への登山道の入り口は、玉地区と、峠を越えた南にある黒地川、大谷吉継陣跡があるあたりを結ぶ林道の途中にあります。峠から尾根伝いに登る道は城山遊歩道としてよく整備されていますが、短いとはいえ急登です。写真は玉城への登山口にある道標、峠を越える林道は東海自然歩道になっています。

城山遊歩道

玉城への道を登り始めると、すぐに階段状の急登です。急登は玉城のある頂上直下まで続きます。

玉城へ登る道

登山道脇には陸軍の石標が点々とあります。第二次世界大戦終了まで関ケ原には陸軍の訓練場があったようです。その時の境界を示したものでしょうか。

陸軍石標
陸軍石標
城山頂上にある玉城

玉城の主郭からは、伊吹山はよく見えるものの、周囲に低い山がありますから、意外なことに、重要な関ケ原、東山道、北国街道などはよく見ることができません。これは玉城の機能に疑問を投げかけます。

玉城からの風景

玉城の主郭は、東屋が建っているところからさらに奥に長く伸びています。写真ではよく見えませんが、斜面を少し降りたところにある玉城の竪堀。写真奥に溝がありますが、これが多分竪堀です。

玉城の竪堀

玉城に関する案内板。城山山頂にあります。

玉城の案内板

関ヶ原古戦場と玉城、不破の関(ハイキング・コース)はこちらを参照してください。

このページはこちらの玉城の記事を参照して作成しました。

滋賀県松尾寺遺跡

滋賀県米原市醒ヶ井地区の松尾寺山の上にかつてあった松尾寺。その起源は平安時代にまで遡るとされています。天台宗の寺として僧兵も抱え戦国時代には栄えていましたが、織田信長の比叡山焼き討ちに先立ち、尾張美濃から比叡山に向かう途中にある天台宗の寺として、比叡山に先立って織田信長によって焼き討ちされた歴史もあるとか。

その後、再建されたものの、次第に勢力が衰え、昭和に入ってから廃寺となり、本堂は朽ち果てました。現在松尾寺は、本堂だけが麓醒井の養鱒場近くに再建され、本尊などが安置されています。

山の上には本堂や鐘撞堂などの礎石や、重要文化財の九重石塔が残り、かつての栄華をしのぶことができます。松尾寺遺跡の訪問記はこちらに詳しく記してあります。

松尾寺九重石塔
松尾寺九重石塔

各務原市 野口館跡

ある時何気なく岐阜県各務原市のあたりをGoogle Mapで見ていると、「野口館跡」というのを見つけました(ここです)。館跡ですから、どなたかのお屋敷のあとかと思って調べてみると、「中世の城」「土塁と堀が残る」などなど。うん?これは戦国時代前の砦のようなものではないですか。

周辺の山々には山城の跡が数多くありますが、野口館跡があるのは完全な平地。かつては畑地の中だったように思われます。今は宅地化が進んでしまっていますが。

最寄りの名鉄駅から歩いて30分弱。現地に行ってみると立派な堀と土塁が。思ったより大きな土塁です。でも、現在も個人宅として使用されており、堀の外側少し離れて柵が設置されているため近づいて詳細に見ることはできません。

文化財などに指定もされていないようで、案内板らしきものも皆無です。各務原市のサイトだと、「野口町中世館跡」として、文化財保護法上の「周知の埋蔵文化財包蔵地」(いわゆる遺跡)となっているとのこと。しかし、地権者の同意が得られず、文化財指定がされないままであるとか。惜しいですね。

野口館跡
野口館跡

ついに来ましたアンコールワット

長年のあこがれであったカンボジアのアンコールワットについにやってきました。まずは動画から。これは中央回廊付近を第二回廊あたりから撮影したものです。中央の塔は実際に見ると、もっと高く見えます。アンコール遺跡の写真はこちらに。遺跡ごとに整理して掲載してあります。

アンコールワットはヒンドゥー教の寺院ですが、やはりインドネシアのプランバナンに似た雰囲気があります。

Angkor Wat Tour from here.

シカン文明の発見者島田泉

子どもたちを図書館に連れて行った時に、ふと一冊の本が目にとまりました。題名は「黄金の大仮面とおどるガイコツ アンデス文明を書き換える日本人考古学者 島田泉」です。小学校中学年以上と書かれた、漢字にはすべてルビがふられた子ども向けの本です。

ペルーやボリビアでインカ、プレインカの遺跡はいくつか訪ねたことがあります。この本に紹介されているのはプレインカ文明の一つ、シカン文化の発見の経緯と、それに携わった日本人考古学者の物語です。シカンという名前は聞いたことがありましたが、詳しいことは今まで知りませんでした。もちろん、その発見に日本人がかかわっていたことも知りませんでした。1994年に日本各地で展覧会が開かれて紹介されていたそうですが、その頃は日本にいませんでしたし…

話としては、高校生くらいからアメリカに渡り、アメリカで考古学者になった島田泉さんの物語ですが、シカン文化そのものも、発掘者の人生と同じくらい魅力的に描かれています。

専門書を読むと、往々にして大人が読んでも難し過ぎるくらいですが、子ども向けの本ですと要点がコンパクトにまとめてあり、しかも人間ドラマも描かれていて楽しく読めます。

実は、シュリーマンの話もそうですし、ツタンカーメン王の墓の発見もそうですが、結構考古学には人間ドラマも発掘の陰に潜んでいます。最近読んだ本ではマヤ文字解読の物語も面白いものでした。