佐和山城

佐和山は彦根の東側、中山道鳥居本宿との間にある標高232mの低山です。現在は山麓の清凉寺や龍潭寺が所有する私有地となっています。この佐和山に、佐和山砦が築かれたのは鎌倉時代のことだそうです。西に琵琶湖を臨み、東にはかつて東山道が通っていましたから、交通の要衝に睨みを利かせるのには絶好の位置にあったと言えます。

佐和山には鎌倉時代の近江の守護職、佐々木定綱の六男の佐保時綱が最初に砦を築いたと言われています。佐々木氏は宇田源氏の血を引く一族で、源平合戦で佐々木定綱が手柄を立てて以降、近江を中心に繁栄し、後に近江を二分する六角氏京極氏も佐々木氏から出たもののようです。佐和山城はその後六角氏が支配するところとなりましたが、戦国時代の終盤に北近江で浅井氏が台頭してくると、浅井氏の支配下となり、配下の磯野員吉が城主となりました。その後、織田信長による攻撃を受けて1571年に降伏。家臣の丹羽長秀が入りました。

その後本能寺の変後に豊臣方の武将が何人か佐和山城に入りましたが、1591年頃(諸説あり)に石田三成が入城しました。佐和山城に天守閣などを整備して、近代的な城郭にしたのは石田三成と言われています。関ケ原合戦が1600年ですから、石田三成の城というイメージが強い佐和山城ですが、実際に三成の城だったのは10年あまり、ということになります。

関ケ原の合戦で石田三成が敗れたあと、佐和山城は徳川家康の攻撃を受けて落城しました。その後徳川四天王の一人で初代彦根藩主の井伊直政が佐和山城を引き継ぎました。彦根藩は佐和山城を廃城にして彦根城を新たに築城しましたが、その時に佐和山城の材料がかなり使われたようです。ちなみに井伊直政は1602年に死去しており、彦根城を作ったのは第二代藩主の井伊直継です。彦根城の完成後に佐和山城の天守部分は徹底的に破壊されたようです。

佐和山城の歴史に関しては、滋賀県教育委員会の資料(PDF)が詳しいです。

佐和山城の大手門は東側東山道に面していましたが、城下町は東西両側にあり、石田三成の屋敷も西側にありました。その後井伊家に縁のある寺院、清凉寺龍潭寺仙琳寺なども、佐和山の西の麓に建てられています。

佐和山城の本丸北側の尾根にある二の丸は三段の曲輪で構成されています。これは最下段、塩硝櫓があったとされるあたりです。

佐和山城西の丸
佐和山城西の丸

現在の登山道は西の丸の土塁の上を通っています。

佐和山城西の丸の土塁
佐和山城西の丸の土塁

広々とした本丸跡。この辺りに天守閣がたっていました。

佐和山城本丸跡
佐和山城本丸跡
佐和山城本丸からの景観
佐和山城本丸からの景観

佐和山城の石垣はほとんどが破壊されていて、残存する場所はほとんどありません。

佐和山城天守閣の石垣
佐和山城天守閣の石垣

千貫井戸は佐和山頂上近くにある水場。

佐和山城千貫井戸
佐和山城千貫井戸

佐和山城太鼓丸口。かつての登城路はここから左、鳥居本の方です。現在の登山道はここから右側に下ります。太鼓丸方面は通行止め。

佐和山城太鼓丸口
佐和山城太鼓丸口